はしがき
日本経済学会(1997年に理論・計量経済学会から名称変更)は1968年に理論経済学会(1934年に日本経済学会として発足,1949年に名称変更)と日本計量経済学会(1950年に発足)を統合し,新会則のもとで発足し,日本を代表する経済学の総合学会となっている.
1959年に理論経済学会と日本計量経済学会は,それまで一部の日本の経済学者によって発行されていた学術雑誌『理論経済学』を学会誌とし,『季刊 理論経済学』と名称をあらため,1994年まで東洋経済新報社から発行されてきた.同誌は1995年にThe Japanese Economic Reviewと名称をあらため,当初はBasil Blackwell社から,そしてその後のWiley社によるBasil Blackwell社の買収に伴い,現在はWiley社によるWiley-Blackwellから英文の学術誌として発行されている.
『現代経済学の潮流』は経済理論の現実的かつ実際的な応用が求められる環境のなかで,日本経済学会の公式の日本語刊行物として1996年から毎年出版されているものである.『現代経済学の潮流』は,かつて『季刊 理論経済学』に発表された多くの優れた日本語論文の伝統を継承するとともに,新たに産学官民の共同の研究や情報交換の場ともなることを目指している.
本書『現代経済学の潮流 2012』は,日本経済学会の2011年度春季大会(熊本学園大学)・秋季大会(筑波大学)で発表された論文から,会長講演,石川賞講演,および3つの特別報告論文を選び,2つのパネル・ディスカッションを加えたものである.
第1章「非伝統的金融政策の有効性:日本銀行の経験」は,植田和男(東京大学)会長講演に基づいて,日本銀行や他のG7主要国中央銀行が採用した非伝統的金融政策について,その手段,有効性について筆者自身の実証分析も含めて幅広く検討を加えている.論文では,ゼロ金利周辺で採用可能な手段を分類した後,この分類に基づいて各中央銀行が実施した政策を整理し,その上で非伝統的金融政策の有効性について,日銀とFedの間で比較検討を行っている.その結果,政策手段の資産価格への影響という点では,日米に大きな差はなく,おおむね金融政策手段は資産価格に予想される方向の影響を与えたことが確認される.ただし,日銀の政策は為替レートには大きな影響を持たなかったこと,非伝統的資産購入を伴わない量的緩和の影響も限られていたことも観察され,非伝統的金融政策の採用にもかかわらず,日本経済のデフレ基調は収まらず,実体経済への影響が弱かったことが明らかにされる.その理由と分析から導かれる金融政策全般への含意にも敷衍されており,日本銀行政策委員会の審議委員を務められた実務経験にも裏付けられた議論は説得力がある.
第2章「自殺対策の経済学」は,澤田康幸(東京大学)による石川賞受賞講演に基づいている.澤田氏は,経済理論に基づいた独創的なデータ収集や,厳密な実証分析により,開発経済学,国際経済学,応用ミクロ計量経済学の分野で,国際レベルで多くの研究を発表している.本論文は,現代日本において,最も深刻な社会問題の一つとなっている自殺について,なぜ自殺「対策」が必要か,そして,なぜ「経済学」の分析が必要なのかについて,澤田氏の共著者たちとの研究を含めた既存研究に基づいて論じている.伝統的に切腹や自決が広く行われてきた日本において自殺は個人の自由・問題であるとする考え方も根強くある.澤田氏は負の外部性や社会的費用や市場の不完全性という経済学の視点を用いて自殺対策の必要性を論じている.また,従来,自殺はうつ病など精神疾患の結果として引き起こされると考えられてきたため,主に精神医療の観点から,自殺がなぜ起こるのかを解明する研究が多く行われてきたが,多くの場合,うつ病の背後には社会経済的な問題があると考えられる.したがって,澤田氏は医学的な立場からうつ病の治療を行うと同時に,その背後にあり得る,自殺者が追い込まれる社会経済的背景・構造的問題を実証分析によって明らかにし,エビデンスに基づいた自殺対策の政策を建てることを提唱している.東日本大震災後ますます日本で重要性を増している自殺について,経済学の観点からの研究と,そのような研究に基づいた対策の必要性が説得的に論じられている.
第3章「相対利潤アプローチが拓く新しい(?)産業組織」,松村敏弘(東京大学)による特別報告をもとに書かれている.それは,産業組織の分野における新たな展開の可能性を拡げた,大変興味深い論文である.企業が自社の利潤と競争相手の利潤の加重和を最大化するモデルを定式化し,寡占から完全競争までの競争状態を単一モデルで扱うことに成功している.このモデルは産業組織のさまざまな問題に適用することができ,極めて有用である.たとえば,研究開発のおける投資競争に適用することにより,競争の激しさと投資水準が非線形関係になり,独占状態や完全競争状態では多くの投資がなされるが,その中間の状態では投資が少なくなることが示され,さらに競争の激化は技術革新が生じにくくなることが明らかにされた.また,空間競争のモデルに適用することにより,利潤の加重和によって企業は市場の中央に立地することが示された.さらに,公企業と私企業が競争関係にある混合寡占市場に適用することにより,競争的でない市場において民営化政策の意義が大きいことが明らかにされた.いずれの適用例も大変示唆に富んでいて,興味深い政策インプリケーションが導かれている.今後さらなる発展が楽しみである.
第4章「資本蓄積・資本破壊と公共投資の生産性について:経済成長モデルによる検証」は,塩路悦朗(一橋大学)による特別報告である.最近の実証研究によれば,日本では公共投資が生産を刺激する効果は近年低下しているという.なぜ,そのような現象が観察されるのだろうか.震災などによる大規模な資本破壊が起きた場合には,公共投資の生産拡大効果にはどのような変化がもたらされるのだろうか.塩路氏は,民間資本と公的資本の代替弾力性に着目し,それが資本蓄積の水準に応じて変化する生産関数を組み込んだ経済成長モデルによって,これらの疑問への答えを見出した.資本蓄積の初期段階や大規模な資本破壊が生じた後では,公共投資は民間投資と補完的な関係にあるため,クラウディングアウト効果が軽微にとどまる.その結果,公共投資の増加は大きな生産拡大をもたらす.しかし,資本蓄積が進むにつれて両者の代替性が強まるため,クラウディングアウト効果も大きくなり,公共投資の生産拡大効果は低下していく.東日本大震災からの復興に公共投資が果たすべき役割を論じるには,人口移動を取り込んだモデルの拡張が必要かもしれないが,こういった地道な研究の積み重ねが復興への一助になることを期待したい.
第5章「誘惑と自制の意思決定」は,武岡則男(横浜国立大学)による特別報告である.標準的な経済学では意思決定は単一の選好に基づいて行われると仮定されている.しかし現実の個人の意思決定では,例えばダイエットを考えている人が高カロリーな食事から誘惑を受け,自制しようとするように,複数の価値基準が用いられると考えられる.本論文は,そのような誘惑がある場合の意思決定を理論化したGul and Pesendorferの自制モデルと,その異時点間選択,非ベイズ的予想改訂,社会的選好などへの応用と,彼らのモデルの一般化を紹介している.Gul and Pesendorferモデルによる選択は顕示選好の弱公理を満たすことが知られているが,現実にさまざまな誘惑に直面する際の心理的葛藤を考えると,この公理から逸脱した選択をモデル化することが望ましい.武岡氏が最近の研究で共著者とともにGul and Pesendofer モデルを一般化して導入した誘導依存型自制モデルは,顕示選好の弱公理からの逸脱と整合的であることが説明されている.誘惑と自制のモデルはこれまで理論的な研究が中心であったが,今後,さまざまな応用研究が行われていくことが予想されるので,本論文による理論と応用の紹介が多くの研究者に有用な助けとなるであろう.
第6章「日本の農業をどうするか」は,座長に伊藤元重(東京大学),パネリストに甲斐野新一(全国農業行動組合中央会),木村福成(慶應大学),神門善久(明治学院大学),鈴木宣弘(東京大学)の各氏を迎えて開催した討論の記録を掲載している.国論を二分して大論争になったTPP(環太平洋経済連携)への参加問題の核心の1つはまさに,日本の農業をどうするか,である.このパネル討論では,農業政策あるいは農産物に関わる貿易政策についてそれぞれ異なる立場をとる専門家に短時間のプレゼンテーションをしていただいた後,過半の時間を討論とフロアからの質疑応答に振り向けた.TPP参加の是非をめぐって侃々諤々の議論が戦わされるだろうと予想して集まった聴衆が多かったのではないかと思われるが,パネリストたちは,日本の農業保護水準は本当に高いのか,農地規制や農家に対する所得再分配政策はどうあるべきかといった経済学的な議論にとどまらず,農家が培ってきた農業技能をいかに継承すべきか,日本の経済外交はどうあるべきなのかといった点にまで踏み込んで,活発な議論を展開した.時間の制約もあり,必ずしも議論を尽くすには至らなかったものの,聴衆は巷間で聞かれる議論と一線を画した,深みのある論戦を刺激的に楽しむことができたであろう.
第7章「非伝統的金融政策の評価」は,司会塩路悦朗(一橋大学),パネリスト雨宮正佳(日本銀行),岩本康志(東京大学),植田和男(東京大学)および本多佑三(関西大学)によるパネル討論である.わが国の経験を踏まえ非伝統的金融政策を多面的に評価し,認識が一致する点,見解が分かれる点が討論を通じて明らかにされている.まず,政策の効果については,1)利子率の期間構造に働きかける時間軸効果,2)流動性の提供により市場機能を修復する効果,3)ポートフォリオ・リバランスや将来期待の好転により実物経済に影響を及ぼす効果,に整理される.1),2)の効果の有用性については見解が一致したが,3)については,効果の有無について見解が分かれた.また,非伝統的金融政策と財政政策の関係についても議論が行われ,中央銀行に対して認められる政策範囲の境界を明確にすべきであるとの指摘が共有された.わが国は世界に先んじて非伝統的金融政策を実施し,実証研究の蓄積も進んでいる.このような研究成果を踏まえたパネル討論は,今後米国や欧州における非伝統的金融政策を評価する上でも有用な情報を提供するだろう.フロアからもこの点について質疑応答がなされた.
本書所収の論文は,それぞれの分野における最新の研究成果であり,今後の経済学の新たな展開とさらなる発展を促すものである.なお,出版にあたり『季刊 理論経済学』の当時からお世話になっている東洋経済新報社および同社出版局の伊東桃子氏に感謝する.
2012年5月
エディター
大垣 昌夫 (慶応義塾大学)
小川 一夫 (大阪大学)
小西 秀樹 (早稲田大学)
田渕 隆俊 (東京大学)
第1章 非伝統的金融策の有効性:日本銀行の経験 第2章 自殺対策の経済学 第3章 相対利潤アプローチが拓く新しい(?)産業組織 第4章 資本蓄積・資本破壊と公的投資の生産性について: 経済成長モデルによる検証 第5章 誘惑と自制の意思決定 第6章 日本の農業をどうするか 第7章 非伝統的金融政策の評価