【序 文】
開発と環境保護はトレード・オフの関係にあるとされる。開発と環境保護は両立しない。環境会計は、環境に対する悪い影響を最小限にしていると説明する。しかし、最小限にすることに成功しても、悪い影響は継続する。あるいは、自然環境は自由財とされる。自由財とされると取引の対象とはならない。これらの考え方は、なにを根拠に主張されるのであろうか、また、今後も継続されるべきなのであろうか。
本書ではこれらの課題を、どの様にしてその事象が生起したのかを尋ねることから始め、今でも変わらぬ本質を明らかにした。
取引は、人々がそれぞれが異なった余剰を手にした時に始まっていた。それは神話と歴史が混在する時代でもあった。当時の取引においても、現在においても、店先で会計はおこなわれる。会計は、取引するだけの価値があるか、取引をする品物を吟味し犠牲と比較する。
会計の対象となるのは、店先の物だけではなく、人の能力にも広がる。専門化し細分化した多様な職業を前提とし、様々な仕事が他人に委ねられる。委ねた仕事の成果に対して会計がおこなわれた。古くは四千年前に禹のおこなった会計であり、近くは良い経営者を見出す企業会計である。
自然環境は悠久の時を経て、現在の状態となった。神話の中の人々が利用した自然環境を、我々も継承し利用している。環境のそれぞれの要素の出自を尋ねれば、そこに稀少性は厳存する。
言葉を伝えることで継承された経験と知識は、文字によって固定され蓄積される。蓄積された経験と知識は、時間にも能力にも限りのある特定の個人では継承できない量となった。専門化し細分化して様々な人々がそれぞれが得意とする分野を継承する。自分の力で作ることはできなくとも、他人の成果が役に立つ物であることを知っていれば、取引をして利用する。
取引をするだけの価値があるかを測定する会計の機能は、特定の個人がする仕事が、他の人にとっても価値がある場合には、特に発揮されなければならない。様々な度量衡が取引を円滑した様に、会計が機能することで優れた他人の成果を享受することが容易になる。
2010(平成22)年8月2日の朝日新聞に、ロンドンにハヤブサが戻ってきたという記事があった。ハウステンボスでは、これに先んじて2001(平成13)年からハヤブサが観察されている。当時ハウステンボスの会長であった池田武邦先生から、105メートルのドムトールンがハヤブサのねぐらになっていることを聞いた。
生物多様性を測定する"kikyo"という単位は、2002(平成14)年に『千葉商大論叢』に「環境会計における新たな評価方法の提言:生態ピラミッドを利用した資産評価の方法」として報告した。しばしば平面上の三角形に擬(なぞら)えて描かれる生態ピラミッドは、空間の中に立体として成立する。ハヤブサが棲みついたことで、ハウステンボスの生態ピラミッドは、その敷地を底面としドムトールンを高さとする錐形に擬えることができる。"kikyo"はその大きさを測る。
池田先生は、ハウステンボスで"kikyo"を利用することに腐心してくださったが、適わなかった。非営利活動法人アサザ基金(代表 飯島博氏)では、2003(平成15)年に得たトヨタ環境活動助成プログラムを利用して"kikyo"により事業の評価をおこなった。また、C.W.ニコル・アファンの森財団でも2008(平成20)年に "kikyo"により森の再生の成果を評価し、2011(平成23)年はトヨタ環境活動助成プログラムにより「アファンの森(里山環境)でおこなわれてきた保全作業の評価の試行」を"kikyo"によりおこなうことを予定している。
再生された環境が取引されて貨幣的な評価が可能になる。市場で取引される財がそうであった様に、取引が開始される前に需要者がその価値に気付くことで取引に繋がる。"kikyo"は、環境を再生した人の生物多様性への影響も、破壊した人の生物多様性への影響も測定する。環境へ影響を与える者の共通の尺度となる。自然環境の継承財としての性質を明らかにし、会計の本質を尋ねたことで、環境を再生する人々がそれを生業とする道程を一つ進めることができる。
本書は、2007(平成19)年から書き始めたが、『新公会計制度のための複式簿記入門』(学陽書房、2008)の出版と、『公会計の理論』(東洋経済新報社、2003)の増補改訂の機会をいただいたこともあり、しばしば中断した。もっとも、自然環境が現在の状態に至る過程を辿ることは、私の知識の特に不足する分野であったために、随分時間を費やした。本書においても、私の理解の至らないところ、あるいは、不適切な表現があるかも知れない。
「新たな現象を説明するのには新しい言葉が必要である」は、井関利明先生からいただいた言葉だ。本書では、 "kikyo"や「継承財」あるいは「獲得財」が、新しい言葉である。「会計」が史記に由来すると紹介することは、新井益太郎先生から「どんどんおやりなさい」との言葉をいただいた。先生に本書をご覧いただけないことが悔やまれる。千葉商科大学教授の佐藤正雄先生には、千葉商科大学経済研究所のプロジェクトに加えていただき、 "kikyo"の評価の有用性や関連する領域の調査に様々な便宜をいただいた。東京環境工科専門学校講師の三森典彰先生には、氏のアサザ基金勤務の時代から"kikyo"の評価に手を借り、本書でも生物に関するアドバイスをいただいた。
本書では「突飛な行動」と訳した "Protean behaviour"を研究され、また図版の利用を快諾くださった P.M.ドライバー先生、"kikyo"による評価にフィールドを提供いただいた飯島博氏、C.W.ニコル氏、テムズ川の源流を案内いただきながらその再生についてお話ししていただいた英国環境庁自然保護局長のアリスター・ドライバー氏、そしてここでは書ききれないお世話になった方々に感謝の言葉を献じたい。
本書を手にした諸氏に、図々しくもお願いがある。本書の一部分を見るのではなく、全体を通じてぜひ一緒に考えていただきたい。近時の津波は、長い時間をかけて覆い隠そうとした電力の大量生産によって生じる放射性廃棄物が、環境に与える影響を一瞬で明らかにした。自然環境は継承財である。能力の無い者に資源を委ねては、悪事に使われる。能力のある者はこれを有効に使う。他人に依存する社会では、能力のある者を見出すことが重要だ。
蓄積された知識と経験が専門化し細分化したために個々人を蒙昧にしてしまった。悪事がおこなわれていても、それに疑いを持つこともない。野放しのままだ。他人の成果を知ることで、他人の成果が役に立つのであればそれを利用し、それが害悪を及ぼすのであれば排除することができる。会計が機能することで適材適所を見出す目を持つことができる。
本書の環境会計が、自然環境を損なうことなく将来世代に継承する一助になれば、私の幸いとなる。
2011年7月2日
吉田 寛
第1章 環境会計の課題と構造 第2章 会計と市場経済 第3章 忘失された価値 第4章 生き物に聞く生物多様性 第5章 環境再生の過程と評価 第6章 環境会計における情報構造 第7章 環境会計の今後の展開 第8章 子供にツケをまわさない
吉田 寛
よしだ・ ひろし
博士(政策研究)・公認会計士
千葉商科大学会計専門職大学院教授
公会計研究所代表
自由経済研究所代表
良い仕事をする人を見付け出すことを会計の役割とする。「子供にツケをまわさない」人を明らかにする環境会計と政府会計の理論の研究と実践をしている。コストの計算では伝えられない非営利組織の成果を伝える成果報告書の作成、また、環境再生を実践する組織には"kikyo"による生物多様性の測定を支援している。
公会計研究所として提唱している政府会計のための公会計原則は、"Taming Leviathan" (Edited by Colleen Dyble, iea(The institute of Economic Affairs),London, 2008 においても「小さな政府」を実現するために有効と評価している。公会計研究所では、その機能と役割を各地で開催する「自治体財政研究会」を通じて紹介している。
主著
『住民のための自治体バランスシート』学陽書房、2003年
『公会計の理論』東洋経済新報社、2003年(第32回日本公認会計士協会学術賞受賞、増補改訂版は2009年刊行)
『新公会計制度のための複式簿記入門』学陽書房、2008年